こんにちは、だるまんです。
希望して夢を抱いて入学した大学院で、「これが大学院生活?」「この生活は本当に自分に合っているだろうか?」「このままやっていけるだろうか?」「この選択は正しかったのだろうか?」と、自問自答、大学院進学に葛藤を感じる方がいます。
努力してきた時間と道のり、周りからの期待や親への恩返しを考えれば、来た道を戻れず、進むしかないとばかりに、その環境に自らを適応させていく人々も多いものです。
そこで、先達の轍に学び、後続する方々はそのような後悔がないよう、大学院進学を後悔する共通の理由を取り上げます。
大学院進学を後悔する共通点
① 看護研究が楽しくない
大学院と言えば、看護研究の基礎をゼロから教えてもらえると思いがちですが、実際には、大学院の講義は数回ほどで、基本的には自らの学習で習得するものとされています。
そのため、誰もが四六時中、研究活動と並行して看護研究の基礎知識や統計学などの専門知識を備えていくために、机に向かう時間が長くなり、必然的に人と関わることがなくなります。
その生活が在学期間中は長期で続くので、臨床現場で患者さんとの関わりにやりがいを感じていた方にとっては苦痛に感じられ、看護研究は自分に向いていないと確信されるという話は、頻繁に耳にします。
このように、自分に向いていない業界に身を置いている場合、大学院進学の栄光の裏腹に、学業ストレスを感じている学生は多いものです。
② 臨床経験が活かされない
アカデミックは教育機関というより研究所の色が濃いので、臨床経験値が高い学生であったとしても、その経験値はアカデミックにおいて即戦力にはなれないと捉えたほうがいいです。
もちろん、現場のことをよく知っているからこそ、ディスカッションでは私見や意見を述べることができるものですが、アカデミックで求められていることは、それ以上に、事象を如何に正しいデータの抽出をもって文字化、つまり論文化できるかどうかです。
要は、研究の技術力を求められています。
そのためには、看護研究の基礎知識や統計学はもちろんのこと、英語力と文章力、プレゼン力も欠かせない能力となります。
つまり、臨床経験値が浅いもしくは皆無であったとしても、上記で述べた能力が備えてあれば、看護アカデミックで十分やっていけるのが大学院でもあるのです。
このように、大学院が求めているものが自分に備わっていないと気づいた時、葛藤が始まるとはよく聞く話です。
③ 英語の実力がない
大学院進学後に誰もに立ちはだかる壁と言えば、アカデミック英語です。
大学院の講義にて英語教材を使用する、海外文献を集める、自分の論文を英語で投稿するなど、英語なしではやっていけない社会でもあります。
大学院受験の時には何とかクリアした英語であっても、それはスタートに過ぎず、進学後に英語に泣かされる大学院生は実に大勢います。
英語が得意でなければ、毎日のように向き合う英語に苦痛を感じ、だからといって英語学習をやり直している時間もないです。
大学院の勉強にやる気があっても英語ができなければ、タスクをクリアしていくことができないので、クリアできないタスクが見る見るうちに山積みとなり、消化不良、アップアップになります。
アップアップになれば、精神的ストレスもそれに比例して増えるので、学校へ行くのが苦痛となる学生はそれなりにいます。
④ 教授との関係性が円満ではない
大学院受験前の事前面接で教授との相性は、おおまかにはかっているとはいえ、進学してみなければ、その相性はわからないものです。
入学当時から卒業まで一貫して円満なこともいれば、アカハラ?と思わせることもあれば、完全放任主義、拘束が強い場合もあり、研究室の風土にもよりますが、教授と円満な関係性を築けるかどうかは、学生にとって学業並みに大事な課題の一つです。
なぜなら、大学院では、教授に直接研究指導を受ける機会が頻繁なので、教授と良い関係性を築けいている学生の方が充実した大学院生活、卒業後のよりよい進路選択ができているからです。
そのため、在学期間中に教授と円満な関係性を築けなかった場合、大学院生活そのものが苦痛となると聞きます。
⑤ 研究室の仲間が良くない
大学院生は、1日の大半を研究室で過ごすので、そこで共に過ごす研究室の仲間の雰囲気が学生に与える影響はとても大きいと言えます。
個人差もありますが、研究室内の学生同士の意思疎通がはかれている、上が下を面倒見る風土がある、外食や外出など定期的な親睦がある、ラインなどのやり取りもするなど、普通のあるべき関係性が存在している場合、組織の一員としての居場所を確立でき、学校生活にも早く慣れていきます。
ところが、これと真逆の環境で、互いに無関心であったり、表面上では仲良く見えて足の引っ張り合ったり、目に見えずして派閥があるなど、負のストレスを与えあう環境である場合、何年も研究室に在籍していても、解けあえず異邦人、ガラパゴス的な位置である人もかなり多いです。
毎日通う研究室、毎日を共にするメンバーでもあるので、その環境そのものがストレスとなる場合は、大学院そのものが楽しくない、苦痛になり、入学したと思いきや学校を後にする人もいます。
⑥ 学生でいることへの焦燥感
修士課程、博士課程と学生期間が長くなるにつれて、当然定期収入はない、出会いもないからパートナーもいない、学業に縛られて思いっきり自分のために過ごせる時間もない…という現実にストレスを感じるということは、よくある話です。
かたや、同世代が社会で稼ぎ出世をしていく、結婚や出産をする、マイホームや車を購入して、人生のコマを進めていく姿を垣間見ながら、自分は人生のコマが進んでいない、何も進まないように感じ、焦燥感に浸るものです。
そうなると、大学院にいること自体に疑念を抱くようになり、研究自体も楽しくなくなってくる、進むどころか原点に戻ってしまうということもあります。
⑦ 将来性が不透明
大学教員になることを目指して大学院進学する方が多い大学院ですが、実際に教授の働きを目前にしてみると、名誉の裏腹に存在する地道な努力の積み重ねの長い道のりに、果たしてこれが自分にとって天職になれるだろうかと自問自答される方は多いものです。
大学院生の生活よりもはるかに課せられる荷は重く、責任は大きく、それをこなすために時間に追われる生活を見ていると、名誉を得ることのために払う対価に耐えられるかどうか、考え直す方もいます。
大学院進学を後悔した人の2つの進路
上記で述べたことを理由に、大学院進学を後悔した方は、二つの進路を辿っています。
① 臨床に戻る
大学院進学を後悔した方は、修士課程で卒業され、臨床に戻るケースがかなり多いです。
大学院進学をしてみたからこそ、看護研究に向いていない、続けられないことがわかり、それまで自分に合っていないと感じていた臨床が如何に自分に合っている天職であったかを痛感されています。
だからこそ、臨床に戻ると進学前よりもより楽しく仕事に取り組めるだけでなく、大学院卒の箔もあるので、早い出世ができているようです。
② 大学院教員を目指す
今まで経てきた時間、努力を思えば、来た道を戻れず、そのような社会であるということを受け入れて、突き進むことを選択する方々もいます。
このような選択をされた方々は、博士号を取得して着実に看護大学教員として就職され、助教からの下積みで教授へと昇りつめています。
その方々の声を聴いてみれば、教員になればなったで名誉は得るものの、教員生活の苦労に進路選択を後悔することもあるようですが、またそれを飲み込みつつ、前進していくようです。
大学教授という名誉の裏には、長期戦での自分と根比べ、苦悩の時間があることを忘れてはならないと思います。
まとめ
以上、看護大学院進学を後悔する共通の理由についてでした。
私達一人ひとり、誰もに試練は必ず訪れます。
その試練の大きさは関係なく、自分が克服していけるからこそ与えられたものであり、それを乗り越えた時には、人はさらに成長しているものです、これは看護業界に限らずです。
今回のテーマのように、大学院進学後に思いもよらず、あらゆる理由があって大学院進学を後悔する、という試練がやってきた時、あなたはどのような選択をするのかシミュレーションをしておくことです、備えあれば患いなし。
その試練を自己免疫に変えて乗り越え、その道をひたむきに進んでいくのも一つ、そこで自分にはこの道が合っていないことを早く悟り、違う道を切り開いて乗り越えていくのも一つです。
試練があるたびに、私たちは常に「YES」か「NO」の選択で人生を紡いでいます。
大学院へ進学するかしないか、大学教員になるかならないか、臨床に戻るか戻らないか、大学院を辞めるか辞めないか…絶えず、その選択をするうえで一番に知るべきことは、「自分という人間の性」です。
他人の幸せが自分の幸せでもなく、自分の幸せが他人の幸せでもない。
社会の目線での基準に合わせて無理に背伸びをしたり、背を縮める必要は全くなく、自分の背丈に合った生き方を選択していくこと、これが幸せになれる法則であると思います。
多くの大学院生が経てきた道だからこそ、わざわざ自分で体当たりで経験をしなくても、世の中にあるたくさんの情報をもとに間接体験することができます。
良い情報を集めて、自分に照らし合わせてみることです。
いい人生選択ができますように。